◆◇◆ 栃木県内初の百貨店 ◆◇◆
上野百貨店
 かつて宇都宮市民が親しみを込めて“さん付け”で呼んだ「3つの“さん”」をご存知だろうか。須賀さん(須賀学園)、二荒さん(宇都宮二荒山神社)・・・そして、「上野さん」

 20世紀の県都・宇都宮市の顔として親しまれた老舗『上野百貨店』を後世に伝えるため、記録としてここに記す。


▲ 上野百貨店の包装紙 (商標「山十」などが描かれている)
 上野百貨店の概要 【Outline】
 上野百貨店の創業は1895年(明治28)・・・宇都宮が町制施行する前の年である。初代・上野房之助が土浦から宇都宮の本郷町3丁目(現・宇都宮市泉町)の上野家へ婿養子に入り、分家して現在の清住通り沿いに呉服太物商「油屋呉服店」を開業したのがはじまり。

 1925年(大正15)に2代目・上野小七(上野房之助の娘婿、旧姓・植竹/黒磯出身)が宇都宮一の繁華街であったバンバ・宇都宮二荒山神社の参道東側に馬場町支店を出店する。1929年(昭和4)より、その馬場町支店で「百貨店」を名乗った。
 上野の商標「山十」が描かれたえんじ色の包み紙は、それだけで中身の質の良さを保証したといい、中元や歳暮などの際に重宝され、古くからのファンが多かった。戦前、県内唯一の百貨店として、官公庁や軍幹部の家には外商がくまなく回り、深い絆を築いていった。

 大正から延々と続いた地域一番店も、1960年代から1970年代にかけて電鉄系を中心とした大手百貨店の相次ぐ宇都宮進出により商戦の渦にのみ込まれていく。バブル経済崩壊後の消費低迷に加え、郊外展開の進む大型小売店の波にも乗れず、業績は低迷を続け、1990年代以降は縮小・減量経営を余儀なくされる。
 1996年に本館をテナントビルへ業態転換、1999年には復活を懸けて県北・大田原市に新規出店するなど業績向上に努めたが、その「大田原店」の売り上げが思うように伸びず、結果的にこの際の借入金が経営を圧迫。2000年12月21日、新世紀を目前にした年末商戦の最中に倒産した。

 上野百貨店の沿革 【Historical Record】
1895年
(明治28)

宇都宮の本郷町三丁目(現・宇都宮市泉町)に
「油屋呉服店」を開業
1910年
(明治43)

油屋呉服店の店舗を新築
【2階建て店舗及び地下1階地上3階の倉庫】

数年後に商号を「上野呉服店」と改称
1925年
(大正14)

宇都宮市相生町2番地(現・馬場通り四丁目1番17号)に
馬場町支店開店【洋風3階建て】
1929年
(昭和4)

馬場町支店で北関東最初の百貨店「上野百貨店」を名乗る
(デパートメントストア宣言)
1945年
(昭和20)
7月12日 宇都宮空襲により店舗焼失、営業休止
9月 法人化して「株式会社上野百貨店」となる

焼け野原の二荒山神社参道東側に店舗を再建し営業再開
1956年
(昭和31)
10月 関連会社「株式会社上野楽器」設立
1964年
(昭和39)

本館を新築開店
【地上6階・地下1階/店舗面積 約4800u】
1969年
(昭和44)
10月10日 新館「新うえの」(バンバ共同ビル)を開店
【地上8階・地下2階/店舗面積 約9300u - 有限会社山木屋洋品店、二荒商事株式会社、有限会社銀座堂との共同ビル】
(本館及び新館の売場面積合計 12191u)
1970年代
本館の増築・増床計画を何度も打ち出すが、地元商業関係者らの反対で実現せず
1976年
(昭和51)

売上高145億円【推定】
1985年頃
JR宇都宮駅西口再開発ビル「西口ビル」へのキーテナントに意欲を見せたが、イトーヨーカドーグループの進出が決まり頓挫
1989年
(平成1)

鹿沼市「とちぎ流通センター」内に上野百貨店配送センター落成
(現・カンダコーポレーション(株)宇都宮営業所・配送センター)
1995年
(平成7)

創業100周年
(キャッチコピー/ありがとう、笑顔の上野です。)
1996年
(平成8)

売上高89億円【推定】
9月10日 亜土電子工業と業務提携し、本館をパソコン専門店「T-ZONE」とする計画などを発表
9月17日 本館での百貨店営業を終了
10月 新館リニューアルオープン
【売り場を新館に集約 - 店舗面積 約9300u】
11月30日 本館をテナントビルに業態転換、
「上野百貨店マルチメディア館 T-ZONE」として開店
【店舗面積 4765u】
1997年
(平成9)
7月10日 大田原市への新規出店計画を表明(1998年3月より着工)
1999年
(平成11)
4月25日 大田原店を開店
【地上3階・地下1階/店舗面積 15310u】 - 投資金額約52億円
6月 本館のキーテナント「T-ZONE」が撤退

売上高84億円【推定】
2000年
(平成12)
3月3日 家電量販店「コジマ」への本館売却交渉が明らかになる
4月 コジマへの本館売却交渉が破談
4月 足利銀行からの新規融資が打ち切られる(債務と利子の返済は棚上げ)
8月下旬 新館(地下1階〜地上8階)の売場を2フロアに縮小、外商・ギフト主体の店舗に業態転換
12月20日 午前中、宇都宮地方裁判所に自己破産申し立て
(同日が百貨店営業最終日となる)
関連会社「株式会社うえのユーマート」(本社/宇都宮市緑一丁目)が民事再生法申し立て
12月21日 宇都宮地裁が上野百貨店に対し破産を宣告
(負債総額/約164億円)
新館「新うえの」及び大田原店の在庫商品の保全処分を行う
関連会社「株式会社うえのユーマート」が債権者集会を開き、株式会社たいらや北関東(現・株式会社たいらや)の支援による再生を決定
12月23日 うえのユーマート宇都宮市内3店舗(緑店、峰店、鶴田店)が営業を再開
2001年
(平成13)
8月 「株式会社うえのユーマート」が株式会社たいらや北関東の100%子会社となる
2002年
(平成14)
3月1日 「株式会社うえのユーマート」が株式会社たいらや北関東に吸収合併される(法人消滅)

 上野百貨店の歴代家督(社長) 【President】
初代家督 上野 房之助
2代目社長 上野 小七
3代目社長 上野 修二郎
4代目社長 上野 真之介

 倒産に至る経緯 【Complication】
 1960年代から1970年代にかけて宇都宮市内に東武、福田屋、十字屋、丸井、西武と次々に百貨店が開店してオーバーストア状態となり、“地域一番店”だった「上野さん」の勢いに陰りが見えはじめる。売場拡大のために新館「新うえの」を建設したほか、本館の増床工事を何度も計画したが、その度に地元商業関係者らの反対で実現せず・・・現在地での売場拡大は困難となった。1977年、ついに売上高が東武に抜かれ一番店の座から陥落すると、売上高も徐々に下降線をたどることとなる。さらに地方都市特有のモータリゼーションが進み、店舗と直結した駐車場を持たなかった「上野さん」は売り上げの落ち込みが止まらず苦境に立たされた。

 1980年代後半、上野百貨店はJR宇都宮駅西口に建設された再開発ビル「西口ビル」へのキーテナントに意欲を見せたことがある。3代目社長・修二郎が急死し4代目社長・真之介が後を継いだ2年目の頃の話で、すでに売上高は右肩下がりの状態だった。宇都宮の玄関口「JR宇都宮駅」の目の前で、店に直結した立体パーキングを有する再開発ビルに移転して仕切り直す・・・そんな期待の“新天地”だったが、最終的にイトーヨーカドーグループの進出が決まり、「新天地での巻き返し」構想は幻と消えた。
※1990年4月、その西口再開発ビルに開店した「ロビンソン百貨店宇都宮」は、開店以来一度も黒字化することなく2003年9月に閉店している。

 1990年代に入り、年ごとに増していく負債にもがき苦しむ「上野さん」・・・足利銀行からの出向者が経営陣に送り込まれ、リストラを断行。1996年には上野の“本丸”である「本館」をテナントビルに業態転換し、百貨店業務を「新うえの」一館に集約して効率化を図る。そして起死回生策として打ち出したのが「大田原市」への出店計画だった。

 百貨店を開店した2代目上野小七に縁があり、古くからの顧客の多い県北地区の大田原市に大きな駐車場を備えた郊外型の百貨店を出店し、いずれは大田原店をメインにやっていく青写真を4代目・真之介は描いた。1994年に郊外脱出して大成功を収めた福田屋百貨店を参考にしたところは大きい。だが、見通しが甘すぎた。

 大田原店の初年度売上目標を70億円と設定したが、実際は42億円程度に留まり、店舗建設等に投資した52億円が負債として経営に大きくのしかかった。全体の2000年8月期の累積赤字も約47億円に達していた。最後の延命策だった「コジマへの本館売却」も破談となり、長年の付き合いで融資を続けた足利銀行は2000年4月で新規融資を打ち切る。温情でそれまでの債務と利子の返済は棚上げとしたが、その後の運転資金は日銭で稼ぐしかなくなった。宇都宮店の売場を外商・ギフト主体の店舗に業態転換したり、強みのあった外商部門を強化するなど売り上げ向上を目指したが、新世紀を目前に力尽きた。

 上野百貨店の関連企業 【Affiliated Company】
株式会社 うえのユーマート - 食品スーパー事業
2000年12月20日 民事再生法を申請
 → 2000年12月21日 「株式会社たいらや北関東」がスポンサーとなり営業継続
 → 2001年8月 「株式会社たいらや北関東」の100%子会社となる
 → 2002年3月 「株式会社たいらや北関東」が吸収合併(消滅)
★ 緑店 2階に本社事務所があった。
2001年8月に既存店舗をリニューアルし、2005年まで「たいらやユーマート緑店」として営業。
スクラップアンドビルドを実施、2006年10月に新業態のスーパー「プライムマート緑店」として再オープンしている。
★ 峰店 1階が“半地下”のような造りだった。建物は老朽化しており手狭だった上、「たいらや石井店」と近接していた関係で、2001年中に閉店。
取り壊されて跡地に「はなまるうどん」「益益(村さ来グループの居酒屋)」が開店している
★ 鶴田店 2001年11月に既存の建物を改装リニューアル、「たいらやユーマート鶴田店」として現在も営業している。
※ユーマート自体の経営状態は順調であったが、上野百貨店本体の倒産に巻き込まれた格好。河内郡上河内町(当時)に「上河内店」を新規出店する計画があったが、民事再生手続きにより頓挫した。予定地だったところには現在「サンユー上河内店」が出店している。
※かつては桜通り交番の隣接地に「桜店」などもあった。

株式会社 上野楽器 - 楽器販売、ヤマハ音楽教室等の運営
2000年12月の百貨店自己破産前にヤマハの支援を受け百貨店保有分の上野楽器株式を買い戻し、独立

 上野百貨店 フォト・ギャラリー 【Photo Gallery】

▲ 新館「新うえの」 ▲ 本館(手前)と新館「新うえの」(奥)

▲ 大田原店


▲ 大田原店 全景




 上野百貨店のその後 【Afterward】


後日 掲載予定


 参考文献
「とちぎ20世紀・上巻」 下野新聞 2000年 262頁〜267頁


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